貝合わせメッセージ

IMG_4592.JPGIMG_4592.JPG武蔵石壽「介殻稀品撰」にのせてみました

貝合わせ貝覆いの歴史について


貝合わせ貝覆いの歴史について

 貝合わせと貝覆いの歴史については詳しい詳細はあまり知られていません。
 以下、ネットにて出ている情報をもとに私なりに考察したものです。
 平安時代、貝合わせは珍しい貝を持ち寄り和歌をつけてその優劣を競う遊びでした。斎王良子内親王の「斎王貝合日記」(1040年)には貝合わせの様子が書かれているそうです。公式な行事として貝合わせの記述が有るのは、1162年、二条院の后、藤原育子(父、藤原忠通)の立后の後に催された貝合わせです。天皇家、摂関家が後見となって開催されたようです。物語では『堤中納言物語』に貝合わせの詳しい様子が書かれています。こちらは読みやすい現代語訳もありますので、興味のある方は是非読んでみてください。

 平安時代、摂関政治全盛の頃には後宮で繰り広げられる女性たちの物語が政治と深く結びついていました。姫君たちの遊びは時に摂政関白の権勢を表すものとして用いられていたのでしょう。平安時代末期には特に「合わせもの」という遊びが流行しており、貝合わせも「合わせもの」の一つとしてさかんに遊ばれていたようです。

 貝合わせから貝覆いへの変化についてはどの時代、いつ始まったのかは良くわかっていません。貝覆いは鎌倉時代の記述が主なのですが、平安時代から鎌倉時代初期の歌人、西行による「今ぞしる二見の浦のはまくりを貝合わせとておほふなりけり」という歌では、「おほふなりけり」という言葉がありますので、平安時代の後期には和歌を詠む「合わせもの」としての貝合わせというだけでなく、蛤の貝殻を合わせていた、貝覆いをしていたとも考えられます。

 貝覆いに使用していた貝殻は、後にも触れますが、貝殻、特に噛み合わせの箇所が丈夫なチョウセンハマグリの方がむいていると思います。奈良時代初期の常陸国風土記にはすでに鹿島灘の大蛤のことが記載されているようです。鹿島灘の蛤は外洋性のチョウセンハマグリのようですので、大変関心があります。貝覆いの製作には大量の貝殻を集めなくてはならず、その入手方法などは今のところわかりません。

私どもで実際に貝覆いを製作してみると、ゲームが面白く出来るくらいに柄や形、大きさを揃えようとすると貝殻の数はゲームで使用する数の3倍は必要になります。ですので、当初から360個の貝殻で貝覆いをしていたわけではないでしょう。
このあたりは、今後も調べてみたいと思います。

 また『とりかへばや物語』や『源平盛衰記』には貝覆いについての記述があるようですから平安時代の末期~鎌倉時代初期の頃には貝殻を出貝、地貝に分け、円形にならべて相方を捜す貝覆いが遊ばれていたのでしょう。この頃の人々の食生活も気になるところです。

 また貝覆いは「歌かるた」のもとになったともいわれていますし、豪華な貝桶や360個の貝殻に源氏物語絵巻などを描いて婚礼道具にしたのは、室町時代頃からのようです。貝合わせ貝覆いというと平安時代というイメージがありますが、実は平安時代以降も長く遊ばれてきたものです。いつの頃からか、貝合わせと貝覆いは混同されるようになりました。貝覆いでも貝を合わして遊ぶのですから、貝覆いを貝合わせといっても特に差し支えはないように思いますが、未来において平安時代の和歌を詠んだ貝合わせのことを貝覆いだと勘違いされる可能性もありますから、貝合わせと貝覆いが別の遊びであることを私どもではお伝えするようにしています。
 五節句の上巳(雛祭)ではもちろんのこと、七夕にも「七遊」として、「歌」「鞠」「碁」「花札」「貝合」「楊弓」「香」が遊ばれていたとも言われています。明治6年(1873年)の改暦の際に当時の政府は式日としての五節句を廃止しました。太陽暦となったことから、本来の五節句の季節と暦の日にちがずれてしまい、五節句が次第に親しまれなくなったのも、貝合わせ遊びをしなくなった原因の一つかもしれません。

 貝合わせ貝覆いに使われるチョウセンハマグリ(汀線蛤、朝鮮蛤、碁石蛤)の学名はMeretrix lamarckii。ラマルクさんがメレトリックス(遊女)と名付けましたがそれ以前は「ビーナス・ルソリア」(女神のゲーム)という学名だったことも。蛤は「蜃気楼」の「蜃」という大蛤であるという言い伝えもあります。

 余談ですが、私が初めてパリに滞在した時、滞在先の最寄りの駅が「ラマルク・コランクール駅」でした。その時は蛤に関わる仕事をするとは思いもよらなかったのですが、縁を感じます。

 上巳の節句(お雛祭り)に蛤を食べるのは江戸時代の倹約令のためとも。
 江戸時代には浜にゆけばたやすく蛤が採れたわけですから、安価で身近な食材であったのでしょう。江戸時代の絵には妓楼で、貝覆いを楽しむ様子が描かれています。平安時代の貝合歌合は女性が主として開催していたようですし、蛤の貝殻は、男性よりも女性を魅了していたようですが、江戸時代の絵には男性の姿もあります。手に入れやすく、風雅でもある蛤の貝殻は、幅広く親しまれていたんですね。

 貝合わせ貝覆いとも藤では、宮崎県日向産の蛤の貝殻を取り扱っています。宮崎県日向は古来より囲碁の碁石の産地(白石が蛤貝から採れます)ですので、取り扱っている蛤貝を「碁石蛤」としてご紹介しています。蛤の産地は、日向、伊勢、鹿島など神話の舞台となっているところが多いような気がします。古代から食べられていたのでしょう。

 蛤についてはその他にも面白い話が沢山ございますが、まずは貝合わせと貝覆いについての考察をまとめました。何ぶん、ネットでの情報をもとにしたものですので、間違いなどもあるかもしれません。もし、何かお気づきになった方はお教えいただければ幸いです。

貝合わせ貝覆い とも藤
佐藤朋子

宮崎県日向蛤.jpg宮崎県日向蛤.jpg宮崎県日向産蛤

わかちがたく はなれがたいもの

「わかちがたく、はなれがたいもの」二枚貝である蛤を眺めているとこの言葉が浮かんできます。蛤などの二枚貝は、身体の左右に一対二枚の貝殻を持ち、蝶番の部分は靭帯によってしっかりとつながれています。また2枚の貝殻が複雑に噛み合う「主歯」と呼ばれる箇所は、人の歯と同様、この世に一つしかない組み合わせとなっています。
 貝合わせを製作する際には、まず靭帯を取り外し、洗浄をします。靭帯を外された蛤は「主歯」と呼ばれる箇所を合わせることでのみ整合を確認することになります。ばらばらになった2枚の貝殻を合わせたとき、歯と歯の噛み合わせがぴったりと整合する瞬間を是非味わってみてください。そのしっかりと噛み合った2枚の貝殻は「わかちがたく、はなれがたいもの」であると思えるのです。
 蛤の貝殻の色や柄は非常に豊かです。洗浄の際に殻皮とよばれている皮を剥がすと、美しい貝紫が現れたり、または真っ白な無地に、まるで黒い墨で線を引いたかのような美しい柄が現れたりします。表面にはエナメル質の自然の照りがあり、周囲の光を受け、自ら光ります。貝殻の美しさは、豊かな自然に育まれ成長し、その生命を終え、殻のみとなったあとも輝き続けるところかもしれません。あらゆるいのちの源となった海は、太古の昔からこのような実りを産み続けているのです。

貝あわせ貝覆い とも藤 

宮崎県日向市は古くから碁石が知られています。高級碁石の白い石は宮崎県日向産の蛤からとられています。

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 寶船 たからぶね

「初夢」の文化は室町時代ごろからあったようで、当時は今のような七福神を描いたものではなく、この絵のような宝船でした。そしてこのような和歌がかならずかかれていました。
『なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』
(長き夜の 遠の睡りの 皆目醒め 波乗り船の 音の良きかな)
これは後ろからも前からも読むことの出来る「回文歌」になっています。
獏は古来より悪い夢を食べることから船の帆には「宝」ではなく「獏」と描いてあります。
この作品では船の帆が特徴です。遠近法を無視した複雑で色鮮やかな帆は吉夢をいかにも呼びそうです。

画家 佐藤潤

佐藤潤 画 『寶船』 5号 竹紙にアクリル、顔料 2014年制作
貝覆い「宝採」シークレットアイテムに宝船が描かれています。

IMG_6129.jpgIMG_6129.jpg宮崎県日向産蛤

新しい時代の幕開け「貝覆いトラベラー」

 旅をする貝覆いについて思いついたとき、耳の中に波の音がざざーと響いたのを思い出します。旅先で就寝前に、お酒を飲みながら貝を合わせたり、夕暮れの浜辺で敷物を敷いて、貝覆いをする。そんな人が居れば良いなと思ったのです。自然が生み出すものが私たちに与えてくれる安らぎは計り知れません。人工物のなかで暮らしているからこそ、素朴な貝殻に癒される時間が贅沢なひとときになるのではないでしょうか。 星を眺めること、朝日を見に行くこと、山のなかの小さな社を訪ねること、海を仰ぎ見、花壇の蕾みに微笑むこと、その延長に蛤を合わせることをしよう。そうして、この世界の美しさについて知り、感じて、伝えてゆきたいと思っています。

貝あわせ貝覆い とも藤 

宮崎県日向市は古くから碁石が知られています。高級碁石の白い石は宮崎県日向産の蛤からとられています。