貝合わせ貝覆い とも藤

育子と滋子
〜貝合わせと貝覆いの時代〜

 藤原育子(いくし)は1146年、摂政関白藤原忠通の娘として生まれます。
 時は1156年に起こる保元の乱の10年前、天皇家の後宮政策において、忠通は藤原忠実・頼長(実父と弟)と対立関係にありました。

 一方、さかのぼる事4年前、1142年には平滋子が生まれています。中流貴族の娘ですが、姉は平清盛の妻となる時子です。

 1161年、育子は入内し翌年16才で二条天皇の后となります。同じ年、滋子は20才。後白河院の子、のちの高倉天皇を出産しています。

 育子の立后に際して行なわれたのが「歌合・貝合」です。
 天皇と摂関家の後見によるものでした。

 父、忠通はすでに失脚しており、実の兄である基実(もとざね)が摂政関白でしたが忠通は前関白として16才の若い関白である息子を支えていました。

 この時の「貝合」は「貝覆」ではありません。おそらく洲浜をつくりその善し悪しを競い合うものであったと思います。

 さて、院政期の波乱の時代はこのあと激しさを増します。「歌合・貝合」が催行された2年後、育子の父である忠通は亡くなります。そしてその翌年、夫である二条天皇も亡くなります。

 このとき育子は19才、二条天皇には他にも后がおり、子もありましたが、二条天皇が譲位したのは徳大寺家の家司伊岐氏の娘「伊岐善盛女」の子、六条天皇でした。育子は六条天皇の養母として、即位式ではまだ生後8ヶ月であった帝を抱き、高御座にのぼります。しかし、翌年、育子の兄、基実が亡くなります。基実は平清盛の娘、盛子を妻に迎えており、摂関家の財産は盛子をへて清盛へとうつるのです。

 六条天皇は2年と8ヶ月の在位の後、後白河院の意向により高倉天皇へと譲位させられます。

 1168年、27才になった滋子は建春門院の院号を得ます。滋子と後白河院の子である高倉天皇の生母として女御となったのです。一方、対立関係であった育子は出家することになります。

 この頃の平滋子の様子は建春門院につかえていた健御前(建春門院中納言)の回想録「健寿御前日記(たまきはる)」に書かれており、この中に「貝覆」の記述があります。滋子はその容貌の美しさと聡明さで、15才年上の後白河院の寵愛を受けていましたが、その人柄は信念が強く、気丈な性格であったとされています。自らの世話をする女房たちが飽きぬよう「貝覆」を始め様々な遊びをともにし、彼女らをつねに十分に気遣い、また日吉神社と平野神社を信仰し、後白河院の熊野参詣にも何度もともなわれて同行しました。

 1173年4月、後白河院の御所である法住寺が火災にあいます。その際、法住寺には滋子の他、上皇となっていた六条もいました。童形の上皇は後白河院の庇護下に置かれていたのです。同じ年の8月、育子は父、忠通の家司であった藤原邦綱(娘、成子は六条の乳母)の東山第にて28才で亡くなります。
 
 3年後の1176年3月、後白河院は50才を祝う盛大な式典を行ないます。この宴は平氏絶頂の象徴的な宴でしたが、同じ年の7月には育子が亡くなった東山第にて六条上皇が13才の若さで病で亡くなり、同月には滋子も病で亡くなります。

 平安時代の後期「貝合」と「貝覆」が同じ時代にありました。激動の時代の中で女性たちが政争に巻き込まれ、一方は衰退し、一方は栄華を極めました。藤原摂関家が権勢を知らしめるために行なわれた「貝合」と、後白河院の寵姫が自らに仕える女房たちを楽しませるためにともにした「貝覆」。800年以上が過ぎ、今では混同され、「貝覆」を「貝合」呼ぶようになっています。育子と滋子がこの遠い未来に起きている呼び間違いをもし知ることがあれば、どのように受け止めるのでしょう。

 とも藤では、これから先の未来のために、「貝合わせ」と「貝覆い」が別の遊びであることを伝えてゆきたいと思っています。そして「貝覆い」が神経衰弱のように内側を当てるゲームではなく、外側の貝殻の柄を探すゲームであることもお伝えしたいと思っています。

貝合わせ貝覆いとも藤
佐藤朋子

写真は江戸時代の資料「貝尽浦の錦」より。「貝合」のための貝殻を見る姫君たちの後ろには、「貝覆」を納めるための「貝桶」があります。


貝合わせ貝覆いの歴史について ③


貝合わせ貝覆いの歴史について

歌合、物合と貝合考
春日大社若宮社に残る木製磯型

 貝合わせという遊びは、斎王良子内親王の「斎王貝合日記」(1040年5月6日)に記載されている物が一番古いとされます。

 平安時代、貝合わせは珍しい貝を持ち寄り飾り物(洲浜)を作り、和歌を詠んで、洲浜の出来映えや、貝の優劣、和歌の善し悪しで勝敗を決める遊びでした。
 斎王良子内親王の貝合わせでは貝合わせにおける洲浜の様子が記述に詳しく残されています。
 洲浜とは、吉祥の雰囲気をその場に作りだす、飾り物、作り物の一種です。洲浜の他には祇園祭の山や鉾の原型となった「標の山」という飾り物、作り物があります。洲浜は歌合わせや貝合わせで用いられ、吉祥の要素を取り入れた鶴や松、蓬莱山など荘厳に飾り付け、ジオラマのように造られていました。斎王良子内親王の貝合わせでは左方、右方に分かれ、それぞれ三基づつの洲浜が造られました。右方の3つの洲浜のなかに大蛤を題材にした洲浜があり、貝合わせでも蛤を用いていたことがわかります。

 公式な行事として貝合わせの記述が有るのは、1162年、二条院の后、藤原育子(父、藤原忠通)の立后の後に催された歌合、貝合わせです。天皇家、摂関家が後見となって開催されました。
 藤原忠通は1135年に、春日若宮社神殿を今の場所に造営しました。

 春日大社若宮社の御神宝のなかには歌合、斎王良子内親王の貝合わせの洲浜を連想させる興味深いものがあります。「国宝 若宮御料古神宝類 木造彩色磯型残欠」です。

 若宮社の御神宝にはこの木造の磯型以外にも鶴や木をかたどったもの、洲浜形には釘あとも残っており、当時の歌合に用いられたものと考えられています。

 春日大社には、おん祭に先立って行なわれる「装束賜り」の威儀物用いられる調度品として「千切台」や「盃台」が今に伝わっております。こういった調度品は、現代の結納飾り「島台」につながっており、日本人ならではの和様が表現されたこれからも残してゆきたい文化です。

 平安時代に遊ばれた貝合わせは、同時代に遊ばれていた蛤の遊びである貝覆いの遊びの呼び名として今では一般的になっています。しかし、本来の和歌を詠んで遊ぶ歌合わせとして「貝合」の様子にルーツを持つものが、現代に「島台」として婚礼道具となっているのは大変興味深いことです。
 
 貝覆いの遊びは、蛤の貝殻を納める貝桶、そして彩色された貝覆いが婚礼道具として、特に江戸時代には重要なものでした。しかし現代の婚礼では、婚礼のために貝桶と貝覆いを仕立てる人はほとんどいません。着物の文様として、貝桶や蛤が残っているのみです。一方結納飾りとしての島台は現代でもつくられ、使われています。

 私は「島台」には、平安時代からの日本人の美意識が詰まっているように思います。その元となる「洲浜」は、日本の身近な風景を縁起の良い飾り物として造形したのが始まりでした。春日大社若宮社に残る木製磯型を見ると、平安時代末期の藤原氏の人々を息遣いを感じずにはいられません。歌合は時に権勢を表すものとして行われました。磯型などを奉納することで、歌合の盛会と自らの一族の繁栄を願っていたのかもしれません。


貝合わせ貝覆い とも藤
佐藤朋子

貝合わせ貝覆いの歴史について ②


貝合わせ貝覆いの歴史について〜七夕の七遊〜

 蛤の貝殻を身と蓋にわけ、片方を円形に並べ、相方を探す遊び「貝覆い」。
御所に仕える女官達によって書き継がれた日記「御湯殿上日記」には七夕の七つの遊び「七遊」として、貝覆の他に蹴鞠、歌、碁、花、楊弓、酒が遊ばれたと記されている他、昭和6年に発行された有馬敏四郎著「五節句の話」のなかでも、七夕の七遊の一つとして、貝覆がその遊び方とともに紹介されています。遊び方については江戸時代中期の香道家、大枝流芳著「貝尽浦の錦」の「貝蓋記」には詳細な遊び方の他、貝の持ち方や、貝桶への貝のしまい方まで細かな作法が記されています。このように、貝覆いは大変長い間、日本人固有の遊びとして広く遊ばれていたのですが、今では遊ぶ機会がなくなりつつあります。時代の移り変わりとともに遊びは変化してゆくものです。とも藤では古来の作法もお伝えしながら現代の人々が楽しめるものをご提案しております。

貝合わせ貝覆い とも藤
佐藤朋子


武蔵石壽「介殻稀品撰」にのせてみました

貝合わせ貝覆いの歴史について ①


貝合わせと貝覆い


 平安時代、貝合わせは珍しい貝を持ち寄り和歌をつけてその優劣を競う遊びでした。斎王良子内親王の「斎王貝合日記」(1040年)には貝合わせについての記述があります。
 公式な行事として貝合わせの記述が有るのは、1162年、二条院の后、藤原育子(父、藤原忠通)の立后の後に催された貝合わせです。天皇家、摂関家が後見となって開催されました。物語では『堤中納言物語』に貝合わせの詳しい様子が書かれています。こちらは読みやすい現代語訳もありますので、興味のある方は是非読んでみてください。

平安時代末期には「今様」「物合」という遊びが流行しており、貝合わせも「物合」の一つとしてさかんに遊ばれていました。

 さて、貝覆いについても記述が残っています。当時は主に宮中で遊ばれていた貝覆いですが、私は先にあげた藤原育子と同時代に生きていた後白河院寵姫、平滋子に注目しています。

 平安時代の歌人、藤原俊成の娘、建春門院中納言は平滋子に仕えていました。「たまきはる」という自身の日記の中で、貝覆いや貝桶についての記述があります。

 江戸時代の有職故実の学者、伊勢貞丈は「二見の浦」にて六条院高倉院の頃に始まったのではないかと書いています。六条院高倉院の時代は、平清盛や後白河法皇の世でありますので建春門院平滋子などは、おそらく貝覆いで遊んでいたことでしょう。

 当時に思いをはせますと、私どもで実際に貝覆いを製作してみると、ゲームが面白く出来るくらいに柄や形、大きさを揃えようとすると貝殻の数はゲームで使用する数の3倍は必要になります。ですので、当初から360個の貝殻で貝覆いをしていたわけではないと思われます。

 藤原摂関家の衰退、そして平清盛、平氏の世になり鎌倉時代へと時代が移り変わる中で、物合わせとしての貝合わせは記述がなくなってゆき、貝覆いの記述が増えてゆきます。
 『とりかへばや物語』や『源平盛衰記』には貝覆いについての記述があり、鎌倉時代の記述には出貝、地貝に分け、円形にならべて相方を捜す貝覆いが遊ばれていたことがうかがえます。

 その後、貝覆いは「歌かるた」のもとになったともいわれていますし、豪華な貝桶や360個の貝殻に源氏物語絵巻などを描いて婚礼道具にしたのは、室町時代頃からのようです。

 貝合わせ貝覆いというと平安時代というイメージがありますが、実は平安時代以降も長く遊ばれてきたものです。いつの頃からか、貝合わせと貝覆いは混同されるようになりました。貝覆いでも貝を合わして遊ぶのですから、貝覆いを貝合わせといっても特に差し支えはないように思いますが、未来において平安時代の和歌を詠んだ貝合わせのことを貝覆いだと勘違いされる可能性もありますから、貝合わせと貝覆いが別の遊びであることを私どもではお伝えするようにしています。

 五節句の上巳(雛祭)ではもちろんのこと、七夕にも「七遊」として、「歌」「鞠」「碁」「花札」「貝合」「楊弓」「香」が遊ばれていたとも言われています。明治6年(1873年)の改暦の際に当時の政府は式日としての五節句を廃止しました。太陽暦となったことから、本来の五節句の季節と暦の日にちがずれてしまい、五節句が次第に親しまれなくなったのも、貝合わせ遊びをしなくなった原因の一つかもしれません。
 
貝合わせ貝覆い とも藤
佐藤朋子

とも藤にて販売している蛤貝殻

蛤の貝殻について 


蛤の貝殻と貝合わせ、貝覆い

 貝合わせ貝覆いに使われるチョウセンハマグリ(汀線蛤、朝鮮蛤、碁石蛤)の学名はMeretrix lamarckii。ラマルクさんがメレトリックス(遊女)と名付けました。名前から、韓国の蛤である様に思われる方も多いのですが、朝鮮蛤は日本の蛤です。
 中世の遊女は、今様や白拍子を生業にしていたとも言われています。また江戸時代には妓楼で貝覆いを楽しむ姿が絵画に残されています。それ以前は「ビーナス・ルソリア」(女神のゲーム)という学名でした。
 
 蛤は「蜃気楼」の「蜃」という大蛤であるという言い伝えもあります。

 余談ですが、私が初めてパリに滞在した時、滞在先の最寄りの駅が「ラマルク・コランクール駅」でした。その時は蛤に関わる仕事をするとは思いもよらなかったのですが、縁を感じます。

 上巳の節句(お雛祭り)に蛤を食べるのは江戸時代の倹約令のためとも言われています。
 江戸時代には浜にゆけばたやすく蛤が採れたわけですから、安価で身近な食材であったのでしょう。江戸時代の絵には妓楼で、貝覆いを楽しむ様子が描かれています。平安時代の貝合歌合は女性が主として開催していたようですし、蛤の貝殻は、男性よりも女性を魅了していたようですが、江戸時代の絵には男性の姿もあります。手に入れやすく、風雅でもある蛤の貝殻は、幅広く親しまれていたんですね。

 貝合わせ貝覆いとも藤では、宮崎県日向産の蛤の貝殻を取り扱っています。宮崎県日向は古来より囲碁の碁石の産地(白石が蛤貝から採れます)ですので、取り扱っている蛤貝を「碁石蛤」としてご紹介しています。蛤の産地は、日向、伊勢、鹿島など神話の舞台となっているところが多いような気がします。古代から食べられていたのでしょう。

 蛤についてはその他にも面白い話が沢山ございます。とも藤では、貝合わせと貝覆いについてのお話や、貝桶についてのお話を貝合わせ遊びの体験会や講演などでお伝えしています。蛤は長い歴史の中で日本人にとって身近な食材であり、文化でした。活動を通して蛤の文化を未来に残してゆきたいと思っています。

貝合わせ貝覆い とも藤
佐藤朋子

宮崎県日向産蛤


わかちがたく はなれがたいもの

「わかちがたく、はなれがたいもの」二枚貝である蛤を眺めているとこの言葉が浮かんできます。蛤などの二枚貝は、身体の左右に一対二枚の貝殻を持ち、蝶番の部分は靭帯によってしっかりとつながれています。また2枚の貝殻が複雑に噛み合う「主歯」と呼ばれる箇所は、人の歯と同様、この世に一つしかない組み合わせとなっています。
 貝合わせを製作する際には、まず靭帯を取り外し、洗浄をします。靭帯を外された蛤は「主歯」と呼ばれる箇所を合わせることでのみ整合を確認することになります。ばらばらになった2枚の貝殻を合わせたとき、歯と歯の噛み合わせがぴったりと整合する瞬間を是非味わってみてください。そのしっかりと噛み合った2枚の貝殻は「わかちがたく、はなれがたいもの」であると思えるのです。
 蛤の貝殻の色や柄は非常に豊かです。洗浄の際に殻皮とよばれている皮を剥がすと、美しい貝紫が現れたり、または真っ白な無地に、まるで黒い墨で線を引いたかのような美しい柄が現れたりします。表面にはエナメル質の自然の照りがあり、周囲の光を受け、自ら光ります。貝殻の美しさは、豊かな自然に育まれ成長し、その生命を終え、殻のみとなったあとも輝き続けるところかもしれません。あらゆるいのちの源となった海は、太古の昔からこのような実りを産み続けているのです。

貝あわせ貝覆い とも藤 

宮崎県日向市は古くから碁石が知られています。高級碁石の白い石は宮崎県日向産の蛤からとられています。

   

 寶船 たからぶね

「初夢」の文化は室町時代ごろからあったようで、当時は今のような七福神を描いたものではなく、この絵のような宝船でした。そしてこのような和歌がかならずかかれていました。
『なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』
(長き夜の 遠の睡りの 皆目醒め 波乗り船の 音の良きかな)
これは後ろからも前からも読むことの出来る「回文歌」になっています。
獏は古来より悪い夢を食べることから船の帆には「宝」ではなく「獏」と描いてあります。
この作品では船の帆が特徴です。遠近法を無視した複雑で色鮮やかな帆は吉夢をいかにも呼びそうです。

画家 佐藤潤

佐藤潤 画 『寶船』 5号 竹紙にアクリル、顔料 2014年制作
貝覆い「宝採」シークレットアイテムに宝船が描かれています。

宮崎県日向産蛤


新しい時代の幕開け「貝覆いトラベラー」

 旅をする貝覆いについて思いついたとき、耳の中に波の音がざざーと響いたのを思い出します。旅先で就寝前に、お酒を飲みながら貝を合わせたり、夕暮れの浜辺で敷物を敷いて、貝覆いをする。そんな人が居れば良いなと思ったのです。自然が生み出すものが私たちに与えてくれる安らぎは計り知れません。人工物のなかで暮らしているからこそ、素朴な貝殻に癒される時間が贅沢なひとときになるのではないでしょうか。 星を眺めること、朝日を見に行くこと、山のなかの小さな社を訪ねること、海を仰ぎ見、花壇の蕾みに微笑むこと、その延長に蛤を合わせることをしよう。そうして、この世界の美しさについて知り、感じて、伝えてゆきたいと思っています。

貝あわせ貝覆い とも藤 

宮崎県日向市は古くから碁石が知られています。高級碁石の白い石は宮崎県日向産の蛤からとられています。